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御陵沿いを歩いて思う日本の体質、課題について

2020/09/20不断斎見聞記

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 熊野街道を歩くというテーマで、仁徳天皇陵を半周してから南下してきました。熊野詣は、平安時代の院政期から流行したのですが、11世紀後半に白河上皇が始められ貴族に広がったとされます。宗教的には違いないがやや娯楽感覚があったのではないかとと私は捉えています。
 最初に熊野詣の一行が御陵をどう眺めていたのだろうかと想像してみました。5世紀中頃とされる仁徳天皇の時代から約600年、今と比べれば室町前期くらいの時間的隔たりがあります。院の行幸の頃、どの程度の状態になっていたのか知るよしもありませんが、戦国時代には砦に利用されたと読んだことがあります。まだそれよりはましな時代であったでしょうが、葺き石で覆われた墳丘はすでに山林化していたか、近隣住民の燃料採取等で荒らされていたのか、現在ほどの管理にはなっていなかったと思います。遠祖の陵との認識は当然あったと思いますし、各所の王子で遙拝したり歌会が活発に行われていたということですが、陵墓の参拝を一行がしていたのかどうか、また調べてみたいと思います。 さらに歩いていると頭に浮かぶのは、日本人の発想の平面さというか限界についてです。比高約10mというのは近くを歩いていてもけっこう高く感じられます。繁った樹木も入れると20mの小山です。ピラミッドや、秦の始皇帝陵のような高さはありませんが、長さ486mで世界最大だそうです。こんなものを作ってしまうのは、少し前なら奴隷労働の過酷な権力集中の所産だとか書かれていました。その方面の見方は省いても中国と韓半島諸国、また国内豪族への力の示威のためだというのはほぼ確実でしょう。最近では河内平野の開墾で出た土砂の捨て場を兼ねた公共工事も兼ねるのだとかいう説も見ますが、今日でも残土処理はほぼ埋立で済まされます。遠浅の海を埋めて塩田、農地、港湾整備というのが宗教的背景を除ければ合理的でした。内陸部であっても、いかに平坦で建物等の積載可能な地面を拡げるかということに排出された土砂は利用されてきました。宗教的背景を持った示威行為、権力の誇示、が古墳造営の本質であろうと信じて疑いありません。
 問題は、なぜそこまで大きくして、見せつけようとしたかです。ピークを過ぎてなお延長線上の考えで最大のものを作ることは、奈良の大仏、そして戦艦大和と、この国には例があります。繊細で小さなことに関心を向けるとする特徴を日本に見いだす人は多いですが、大きい方も何やら独特なところが感じられます。
 仏教が伝来してその受容について対立が生じ、受容派が勝つに到るについては、古墳の造営疲れもあったのではないかと疑ってしまいます。世代が変わるにつれ、古墳適地の不足は深刻化していったと思われますから、そんなものは要らないか簡略化を後押ししてくれる仏教の教えは救いの手だったかもしれません。
 遅れ気味に大きなものを作ってしまうことの他にも、日本は匠の国で技術水準が高いとか安易に言われていることへの問題意識を次回は考えてみようと思います。

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