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観心寺(大阪府河内長野市)

2015/08/07不断斎見聞記

観心寺(河内長野市)と南朝

観心寺と南朝史

和歌山県内の南北朝期の史跡はまだまだ見るところがあるが、ここはまず河内の観心寺も訪ねておかねばなるまいと、大阪をふらついた帰りに訪ねることにした。

南海電鉄高野線・近鉄長野線「河内長野」駅から東南方、直線距離約2.8㎞、道路距離なら約3.8㎞といったところだが、路線バスは河合寺から楠台など団地を廻っていくのでもう少し距離を走らねばならない。観心寺といえば密教美術の如意輪観音と高校生の頃は覚えていたが、南北朝期の政治軍事史の舞台となったことを、まるで知ろうともしていなかった。

楠木正成がこの寺と縁が深く、山門を入って左手の中院が、楠木家の菩提寺である。正成は8歳から15歳まで和田氏、滝覚坊から学問を受けたという。湊川の戦いで討ち死にした正成の首級を届けられた時、長男正行がここで切腹しようとして止められている。

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正成の倒幕の功績から、建武新政の頃、金堂を建て修理を重ねて、大阪府で最古の国宝建造物になっている。建築的には単層入母屋造りで、和様、禅宗様、大仏様の折衷の典型とされ、そうかと見ればなるほどそれぞれの部分が理解できる。国宝秘仏「如意輪観音像」の開帳は4月17、18日と決まっている。

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わずか3年、1336(建武3)に湊川で正成は敗死したため、大楠公が誓願した三重塔は未完のまま建掛塔として、一層のみ茅葺で残されている。そのままの形で伝えたのはよかったかもしれない。

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金堂から右手へ建掛堂、その奥に、正成首塚が続く。後村上天皇の檜尾陵への参道口という場所である。

首塚などと言うと何ともおそろしい印象を与えるが、楠木正成の場合、国士らの参拝の場となっていたようだ。幕末の天誅組もここを拝んで、五條代官所を襲撃に向かった。

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首塚の前を過ぎた奥の段に、新待賢門院、阿野廉子の墓がある。後醍醐帝の寵妃として、ある時は隠岐へ随い、また吉野に賀名生にと、波乱の人生であったろう彼女は、吉野の夫の近くではなく、息子と夫の忠臣の墓近くに葬られている。

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後村上天皇が、天野山金剛寺から観心寺へ移って来られたのは1359(延文4/正平14)の暮れのことである。前年4月に尊氏が死に新将軍となった足利義詮だが、8月には義満も誕生し、関東でも新田義興を討ち取るなど、上昇機運であった。延文4年になって、将軍は張り切って関東から畠山国清、義深兄弟を呼び寄せ、畿内南部の南朝勢力討伐を命じる。11月には中院通冬らの南朝廷臣の一部が北朝へ移っていった、南朝としては苦しい時期であった。金剛寺からどういう理由で移動したかは、どこにも書いていないが、金剛寺から観心寺までは東北東へ直線距離で約6.2㎞、見たところどちらも丘の間という感じであるが、観心寺の方が金剛山により近く山も深い感じで、防衛しやすかったのだろう。
翌年、河内と紀伊に幕府軍は侵攻、紀伊では龍門山の戦いの後、紀伊中部にまで攻め入る。河内では、4月にはやはり金剛寺は焼かれてしまい、5月には細川清氏は赤坂城を陥落させた。上赤坂城など、観心寺からわずか直線距離で3.2㎞、丘は挟んでいるが、もう本拠地に乗り込まれたような攻め込まれ様である。
ところが守護どおしの争いが絶えない幕府は、京で起こった仁木義長の反逆事件により、攻撃軍は散り散りに引き上げてしまい、南朝は逆に元気を取り戻すことになる。正平15年9月、後村上天皇は住吉神社へと移っていかれた。つまり1年も観心寺には留られなかったのである、政務を執られた行宮趾が境内に残されている。
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 その翌年(1361)2月仁木は南朝に降り、9月には執事の細川清氏が義詮と対立して京を脱出、南朝に参じた。南朝方の細川と直冬党の石塔がめいめい同時期に京をめざし、義詮は後光厳天皇と近江へ逃れ、南朝は第4回、そして最後の京都占領を、12月のわずか20日間行うことになる。例によって南朝も地力の弱さから京都を保ち得ず、住吉に後退。その後は幕府の執事に斯波義将が就き、山陰の大内、山陽の山名を帰順させるなどして、しだいに政局を安定化させ、南朝は勢力を回復できず、後村上天皇は1368(正平23)年3月、住吉で崩御され、観心寺の檜尾陵に葬られた。

年表を見ると、後村上天皇は義良親王として、1333(元弘3)年には北畠顕家を付けてもらい陸奥に下り、1335(建武2)年には共に上京し、足利尊氏らを一旦は九州まで追い落としたものの、すぐに陸奥に帰還してしまった。後から考えればこれは戦略ミスで中央制圧に戦力を集中するべきであったろう。1336年、すぐさま足利は九州から捲土重来し、楠木正成を湊川で敗死させ、京を占領する。後醍醐天皇は比叡山に籠もり市街戦も続いたが、補給を絶たれて降伏、脱出して吉野遷幸、南北朝の分裂に至る。1338(延元3)年、義良親王と北畠顕家は再度上京を命じられ、青野ヶ原(後の関ヶ原)で勝ちはしたものの京に入れず大和方面に廻ることになり、京から南下した幕府軍主力(高師直、師泰ら)に般若坂で敗れ、顕家はさらに河内方面に押し出されてしまった。一旦体制を立て直し北上を試みるも、阿倍野で戦いそして5月に堺の石津で討死してしまう。義良親王は、今度は顕家の父、親房と東国へ向かおうとするが、嵐で遭難、吉野に舞い戻って皇太子になり、父帝崩御で即位、1339(延元4)のことである。
その後攻め込まれながらも、京の回復を諦めず、正平の一統後に1352(正平7)第1回、足利直冬党との連携で1353年第2回、1355年第3回とごく短期間ながら、京都を奪還している。最後は上に述べた1361年である。こうして見るとまさに東奔西走、波乱の生涯で、父帝の遺志を継がれて戦い抜かれたのであり、上古を除けばこれほど戦い続けた天皇はいない。

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