信頼と実績で選ばれる和歌山の不動産鑑定事務所

名手不動産鑑定株式会社

TEL.073-428-0005

受付時間 8:30~17:30

メニュー
コラム

林業、山をどうするか

2015/08/07コラム

林業、山をどうするか  2015年において

だいぶ以前に書いていたコラムを、サイトリニューアルを機会に書き直してみた。

1.客観状況を知ってもらおう

もう随分前から林業崩壊が言われてきた。全国の森林整備公社の整理も続出である。森林組合から民間の林業経営体に至るまで、産業として見た林業は、はっきり言って既に破綻している。つまり補助金なしには維持できない。債務の返済も他部門からの移転でしか無理。県が林業公社の債務を引き取るなど同じことである。
一時期までは、60年では採算に合わないから80年おこうとか、超長伐期にして銘木を作るなどの動きもあったが、最近ではそれも諦めて、あまり伐期を伸ばすと、伐る機械も大きくなったり、技術を持つ労働力が確保できないとかで、さっさと60年とか70年で伐った方がいいという意見が強くなってきた。急傾斜だが木が良く伸びて銘木産地だったところよりは、やや木は低質でも、傾斜が緩くてクローラー(林内運搬車両)の入る九州や北海道の方が経営しやすく、出材が盛んになった。いや伐った跡は放りっぱなしがほとんどで、資源劣化させてるだけだという声もあるが、いずれにしても年輪が詰まって節がなくて通直(まっすぐ伸びた形状の丸太であること)が尊ばれる時代ではなくなった。建築材として歪みがなく使いやすい集成材に需要がシフトしてしまい、節の有無は重視されなくなった。上からクロスを貼る構造が増えて、木を見せることも減り、見せても消費者の感覚が変わって節がある方がきれいだという人まで増えているそうだ。結局、低コストで伐出できる山が求められ、できたら伐って後は放置したい。保安林はしかたないが。
ということで、まったく林業経営意欲は地に落ちた感があるが、一部累代の山林家と余裕のある企業が、特殊需要に対応すべく、あるいは経営維持のためがんばっておられる。相当補助金も出ているが、これも森林組合を生きながらえさせる、つまり過疎地の維持のようなもので、新たに山林への投資を呼び込むためのものではない。消費税増税前の駆け込みで少し国産材が動いたかと思ったら、最近また一層材価下落らしい。ここまでくると一旦手段は問わずに清算を図るのが常道だが、買い手不在なのでどうにも動けない、というあたりが最新状況だろう。

とは言え、林業が経営的に成り立たなくとも、山はそこにあり、木は成長し続けている。今は伐採しても採算が合わない山も、為替や市場価格、そして国内の素材加工、流通市場が整備されれば、採算に合ってくるかもしれない。また木材の生産だけを考えるのではなく、治山治水という目で見れば他の産業に属する者でも荒れるにまかせるわけにはいかない。環境という面からも二酸化炭素固定化に重要な貢献をしている山林に存在意義がないわけではない。経済的採算に合わないとは、材木を得るために木を植えるという行為についてだけである。

2.ではどうするのか

公社や自治体は一部債務免除なら、森林組合はどうするのか、また林業を営む民間の個人、法人はどうするつもりなのか。
たしかに木材は自由化が早く価格下落は猛烈で都心不動産のように数分の1になったどころか、まさに価値的には蒸発してしまった。評価的に言えば投資価値なし、ゼロもしくは負価の山林が、おそらくこれも大部分であろう。そんな山に保安林を除いてわずかとは言え固定資産税をかけ、機械的な評価を前提に相続税まで徴収している。ややこしいのは運良く林業以外の用途に林地を転換できれば一挙に数百倍の市場価値が突然現れるからわけがわからないが、これはまず例外中の例外でしかない。

林業が採算に合わないから手入れが遅れる。手入れした山としない山ではいざ伐るとなると価値は数倍違ってくる。林業として見ても手入れはした方がいい。また手入れしないと不健康な山となって森の保水力が低下して、地滑りや水害のもとになる。補助金も付いているから手入れは積極的にやろう。

とは通常言われてきたことだが、別の考えもある。そもそも戦後、木の価格が高いときに営利目的で本来植林すべきでない所まで無理矢理に針葉樹を植えてしまったのが問題だ。山を荒らして林道をつけ、それでも採算は合わず、花粉症の元を作っているだけではないか。稀ではあるが「環境」に関心のある者が、手入れの悪い山を買って、普通とは逆に杉とかヒノキの針葉樹を伐って広葉樹林に戻そうとする人がいるらしい。これは趣味だろうが、エネルギーの無駄遣いか、どこかの予算確保の理屈に使われるから賛成しないが、いっそ崩壊防止以外の作業をすべて中止すれば、数百年立てば自然の生態系の遷移で針葉樹林になる所はそうなるし、広葉樹林に戻るところは戻るのではないだろうか。本当に採算の合うところだけ伐採、それも営利間伐で新植なしでやってくというのはどうなんだろう。こっちの考えの方が妙に納得するのだが、経営体は木を伐らないと維持できない。債務免除でもしてくれるならそれも可能だが。もし国有林、公社、森林組合も組織替えして大幅縮小し、治山治水目的対応にしてしまうと、林業従事者の大部分を他産業へ移動させなければならない。経済学的にはそれで国民経済の生産性は上昇するだろうが、過疎地域は集団移住を迫られるだろう。ゆえにこうした考えに賛成もできないのだ。

極端な意見では、野生生物の生息地を奪ってまで山で建築材料としての木を育てる行為自体を環境破壊だという者もいる。これは論外で、適切なサイクルで木に固定された二酸化炭素を建築に使う方が環境対策にはよい。外国の木よりも国内の木を使う方が輸送にエネルギーは少ないはずだ。鉄骨造が木造より環境によい根拠などないのだ。とは言え田畑の延長の感覚で林道から遠く離れた尾根際まで植えてしまった戦後の植林地の多くは、撫育をすべて伐期まで続けるべきだとは私は思わない。後は採算の乗る所だけ伐ればよいのだ。問題は誰が伐るのかで、生計を素材生産で維持する者がいなくては困るのである。したがって大幅に林業を縮小しながらも労働力、地域社会は維持しなくてはならない。ではどの程度なのか。手入れの悪い山はどうするのがよいのだろうか。

4.新自由主義者の見地では

アラン=グリーンスパンは回想録で述べている。資本主義の本流からは、競争による生産性の向上が方策であり、保護主義的な対策ではかえって投資も呼び込めず、結果的に生活水準はあがらないという。日本はまったくこれと違い補助金で保護してきた。結果は今のところ、前FRB議長の言うとおりだったわけだ。どれだけの規模とか施業計画は関係がない、市場がこれを決めるのだ。とすれば、現実から考えると、補助金のレベルが、将来の林業部門の規模を決定することになる。間接的には既往債務の処理方針も同じである。
急激すぎても投資する受け皿がないためこの方向からの改革も進まないと思われる。第一、林業関係者は誰も支持しないだろう。彼らのいうポピュリズムが深く捕らえている。とは言え相手は自然相手で、公益機能も大きい分野である。経済合理主義では割り切れない。朝起きたら、1日分の金利が発生するという、資本主義のルールが貫徹する世界だとも思われないのである。状況が変わればルールも変わる、という近代以前の良識や自然の理がむしろふさわしいようだ。これをモラルハザードだと片付けて、片っ端から伐採して、植林せず放置すれば、洪水が多発して、かえって社会的被害が大きくなる。国土の70%が経済的に無価値なら、低コストで国土を買い占めることができる。 これは安全保障上も大変なリスクだ。

5.森林の特殊性、社会性を社会に知らせる
グリーンスパン博士は競争的資本主義への批判は「悲痛な叫び」だが、合理的な解決策はなく、改革を実施しても、助けようとした者の生活水準は逆に低下すると指摘される。つまり補助金で延命しても林業関係者は豊かにならないという考え方であろう。国土の地勢的制約から生産性の向上は難しいが、放置していて解決にはなるまい。強制的処分は、一部の伐採業者がかつてのハゲタカの役割を勤めることになるが、伐った跡植えようなどとは考えていない。今ある山を循環的に維持させるべく措置を講じるのか、伐り荒らして洪水を招くかどちらがいいかである。
山林の特殊性を社会に認知させる努力はまだまだ不足している。私の立場では、相続税の課税は山林に関してはおかしいとしか思えないから、評価に実態を正しく反映させる努力をしていくつもりである。一経営体としては、自らの利益にのっとって最善を尽くすだけである。

新着情報
What's new