何故守護所を大野に移したか(大野城趾-海南市)
2015/08/07不断斎見聞記
大野城に何故守護所が置かれたのか
海南市中心部から南を向いて、下津地区との間を屏風のように遮った、東西に伸びる藤白山の上に大野城趾がある。標高約436mの峰に平場を設けて曲輪跡が三段ばかり切り開かれている。発掘の結果を教育委員会が立て看板にしている。JR海南駅から南南東向きに直線距離で2㎞余りであるが、歩けば藤白峠から1時間くらいは見ておいた方がいい。雨の森の自然公園駐車場から尾根まで15分、城跡まで40分くらいだったが、荒れた林道は城跡真下まで続いているので、10分しか歩かないで済ませることもできただろう。
2.築城の時期、守護所の移転
紀伊国守護に山名義理(よしまさ)が任じられたのが1378年(北朝の永和4年)12月である。前守護細川業秀が淡路へ逃走した後に交替したもので、同時に兄弟の山名氏清が和泉守護に任じられ、兄弟そろって紀泉の南朝方を制圧しようというわけである。
ここで翌1379年2月(北朝の康暦元年/南朝の天授5年)に山名義理は有田、湯浅方面に侵攻し、藤並、湯浅、石垣と湯浅党の城を次々に攻略した。おそらくこの時に、南朝側の砦であったこの山城を占拠、整備したと思われる。
1380年8月、山名兄弟は共同して伊都郡隅田庄の隅田一族や官省符省の政所一族を降伏させ、翌月には伊都郡相賀庄生地城を陥落させた。これで紀北は北朝が制圧に大きく前進したわけである。7月には和泉で橋本正督が討ち取られている。
そして至徳年中(1384-86)に紀伊国守護所を大野へ移したというのだが、これが前から私には疑問だった。大野に紀伊国守護所を持ってくるほど、平地もそうない大野中が栄えていたのかとか、山城に守護が常在するわけもなく、麓の春日神社付近にいたのだろうと思うものの、守護所は府中付近でいいじゃないかと疑問に感じていた。
当時大野は、熊野街道と高野街道の分岐点にあり、日方浦の水運の便も良く、市が立っていたというが。
これは紀北の南朝側の最後の拠点、大旗山の包囲、制圧を意図したものであると私はにらんだ。時期は至徳元年1384年であろう。
3.大旗山の包囲攻撃との関連
大旗山の散策から出てきた郷土史の疑問を追って何冊かの本を読んで紀北の古戦場、城趾を廻った中で漸く自分なりに背景を理解できたように思われる。1385年(至徳2)10.3に大旗山は陥落、楠木正久ら500余名が全滅して紀北の南朝方の抵抗は潰えることになるのだが、8月の楠木正儀の三谷城での挙兵、敗北はどういう流れの中の位置づけだったのだろう。1382年に一旦は北朝に付いていた正儀は南朝に復帰するが、閏1月に河内平尾で山名氏清に大敗、赤坂城に籠もったといわれている。最後の力を振り絞って紀伊へ出兵してきたわけであろう。数百名の籠もる大旗山を1万余りの兵力で包囲したらしいが、守護所を大野に移し本陣にしたと考えている。紀ノ川右岸の台地、実質紀伊国の中心部は完全に抑えたという自信もあったであろう。
4.地政学
藤白山系は大旗山と南朝側の拠点有田、湯浅地方の間を遮断する位置にある。城域は尾根沿いに伸びており、熊野街道の藤白峠と別所越の道は完全に押さえることができたはずである。在田方面や紀北の南朝側の強い地域との間を遮断し、睨みをきかせるために、大野まで守護所を移したと考えるのだ。たぶん大旗山は湯浅からの補給路を断たれ、三谷城での挙兵は救出作戦のようなものだったのではないか。孤立した最後の拠点、大旗山の篠ガ城の守将は正儀の近親者であったに違いないが、頼山陽の日本外史他諸資料には名が出てこない。正儀すら消息がつかめないほど、この時期には南朝方の衰微は極まっていたそうである。
大野城趾付近から遠望すると大旗山を見下ろすことができる。案外単純な、敵より高い位置を占めて心理的に圧迫することが理由のひとつだったかもしれない。
5.出城
大野城も出城が多く、本城も東西500mほど伸びた広いものだが、西に藤白城、北に池崎城などいくつあって、制圧規模の広大さを感じさせる。これを調べているうちに気づいたことだが、池崎山と近在では呼ぶ南西向きに突き出た海岸に近い岩山が、何故池崎山なのかである。黒江が万葉の頃は入り江で鎌倉時代の大地震で隆起したとも聞くが、徐々に海退する過程で海に続く池のような形になっている時期があったのではないかと思った。
これはまた別の機会に調べるつもりである。
当然守護所があれば人も集まる。木地師が住み着いて渋地椀の産地になった理由でもあると思うのだ。
6.足利義満、和歌浦を遊覧する
いずれにせよ紀北制圧もなり、幕府勢力は紀伊国では安定支配の段階に入った。3年後、1388年(嘉慶2)には足利義満が和歌浦に遊覧する。示威、また諸豪族の向背を睨むためで、挨拶に来ない豪族は敵と見られたのかもしれない。その間にも反乱があり、将軍自ら討伐にあたったともあるから、反幕府感情が残っていたのはたしかであろう。翌1389年(康応1)9月には義満は高野山にも参詣している。近畿南部は南朝本拠に近いので、念入りであったようだ。
守護の山名義理も明徳の乱で1391年(明徳2)に没落する。氏清は討ち取られた。将軍は有力守護をあるいは同族で争いをわざと起こさせたり、自ら挑発してわざと叛かせたりして、潰し弱体化を図ったのだ。なかなか金閣寺を建てるだけのことはある大将軍であったようだ。そして南北合一が1392年(明徳3)である。最後の段階近くまで、紀伊国では南朝勢力が抵抗していたのである。
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